昨年末に義父、義祖母が亡くなりました。先週妻は腰を怪我し、挑戦しようとしていた新たな取り組みは時期尚早、準備不足との判断のもと、今回は断念しました。そんな私を『不幸』だとか、『つらい思いをしている』と励ましてくださる方が沢山いらっしゃいます。ありがたいなぁ、そんな皆さんが私を支えてくれてるんだなぁと感謝の気持ちがある半面、「自分はそれほど不幸なのか。」と首をかしげたくなります。義父や義祖母が亡くなったことは悲しいし、悔しいし、残念なことです。でも、私にはどうすることもできないことですし、少しの時間でも息子として、孫としてかかわれたことを感謝しています。妻が怪我したことは、残念だし、痛みを感じている妻のつらさを思うと何とかしてやりたいけど何も出来ない自分が歯がゆく感じます。子どもたちの保育園への送迎などにより仕事の面では負担を感じることもあるのは確かです。でも、日ごろの妻の頑張りを感じることができますし、子どもたちが妻を支えることに協力してくれています。とてもうれしいことです。新たな取り組みについて、資金面の問題や、体制作りなどに遅れが出て断念したことにしても、挑戦に価値があることは十二分に理解していますが、それよりも優先したい、大切にしたいことがあり、そちらを優先することを選択したのです。
加えて、仕事の依頼も溜まっていますし、息子は小学校入学を控え、娘も保育園でお友達と仲良く楽しんでいます。妻も、日に日に症状が改善され、笑顔が増えてきています。私も元気にさせて頂いています。心から幸せを感じています。不便や、面倒はあるかもしれませんが、決して不幸ではありません。
不幸だなぁと思うのは「自分はなんて不幸なんだろう。なぜ自分だけにこんなことが起きるのだろう。」と考えてしまうことだと思うのです。不幸ではなく、乗り越える必要がある試練なのかもしれませんし、思ったほど大きな問題ではないのかもしれません。「神は乗り越えられない試練は与えない。」なんて言うじゃないですか。「できない!どうしよう!だめだ!」と諦めるより、「どうすればうまくいくんだろう」「やるためにはどこをどうすればいいんだろう。」とやるために何をすればいいかを考えればいいのであり、今の自分にできるのは何か、それを考えればいいと思うのです。気持ちのブレーキをかけない。どんなにしんどくても、それを楽しみたい、そう考えています。
幸せの基準ってどこにあるんでしょう。自分の思い込み、「これが普通。」「これが当たり前。」そんな固定観念が相手のことを思いやるときにでも出てしまうことがあります。特に私たちのようにお客様のニーズ、思いを受け止め、形にしていく仕事では、大きな誤解を生むことにもなりかねませんので、自分の固定観念、こだわりなどには注意を払う必要があります。
「言ったはず。伝えたはず。」も注意が必要ですね。相手はあくまで自分ではないのですから、どう伝えたかではなく、どう伝わったかに注力したいですね。
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